先生の声は、理解できない外国語の様に左右の耳から入り込むものの、脳の中に浸透することなく再び出て行くのを繰り返している。午前中体育の授業で水泳を終えた私たちのクラスには、なんともいえない疲労感と、涼しい心地よさと、うっすら塩素の匂いが漂っていた。眠くなってしまう生徒も少なくない。この私も例外ではなく、気が付いたら眠い目を擦っていた。気が付いた時には人差し指には黒いアイラインが染み込んでいた。ああ、取れてしまったメイクを確認しなければならない。 なるべく音をたてないように、カバンの中を漁る。雑貨屋さんで買った、立てかけても使える大き目の鏡は、カバンの一番底にいた。すうっと取り出して、蓋を開ける。映ったのは寝ぼけた自分の情けない顔。密かに肩を落とすのは、崩れた化粧のせいに他ならない。寝ぼけているからといって、忘れて瞼を擦ってしまったのは不覚であった。 崩れた時に醜いからと、目の下には普段アイラインを引かないようにしていたのだが、涙で滲んでしまった黒いものは今や隈のようになっている。 これはまずい、と私は鏡を立てかけた。 またまた音を立てないように鞄からポーチを取り出して、メイク落としを一枚。そっと滲んだ黒ずみを取り除く。 肘が机に軽くぶつかって、鏡がずるりと筆箱からずり落ちる。 直そうと思って手を伸ばし、角度を調節しようとすると、私の背後が映し出された。 後ろから三番目である私の席から、斜め後ろのそのまた後ろ。窓際の一番眠たくなる席で机に突っ伏しているのは、きっと私と同じように授業なんて全く真面目に受ける気がないんだろう、大きく背中を上下させる宍戸くんだ。 彼は机の上に、一応ノートを広げてはみたものの、眠気に勝てずに腕の上に頭を伏せていた。ほら、やっぱりみんなプールのあとは眠いよね、なんて仲間を見つけてなんだか嬉しい気持ちになる。宍戸くんはたしかテニス部だ。朝練があったに違いない。枕になって、前にすうっと伸びている腕には主張しすぎず、けれどしなやかな筋肉がついている。7月の日差しで、程よく日焼けした腕が男の子らしい。 普段彼のことをじっと見たことがなかったもので、気が付いたら見入ってしまっていた。すると突然、宍戸くんはびくっと身体を大きく動かすと、勢いよく頭を上げた。その反動で、大きく脚を机にぶつけて音までたてて。驚いたクラスメートが何人も宍戸くんを振り返る。私はそのまま鏡越しに。当の本人は、まだ半分夢の中なのか状況が掴めずに重たそうな瞼を半分くらい開けてきょとんとしている。 「宍戸ー、お前寝てたってのがばればれだぞ」 先生に名前を呼ばれたことでやっと意識が覚醒したようで、宍戸くんは「んあ!?」と変な声をあげた。彼ってこんな人だったっけ、と小さく笑った私も含め、教室で笑いが起こる。宍戸くんの額は腕の痕がくっきり残って真っ赤。これは面白い。 突然の先生の声に宍戸は意識が戻ったようで、目を見開いて「あ、あれ?」などと言っている。宍戸ってこんなヤツだったっけ、と小さく笑った私も含めて、教室の何人かがアハハと声を出して笑った。宍戸の額には真っ赤に寝ていた痕が着いているし、これは最高に面白い。 「あー、くそ」と一人でつぶやくと、宍戸くんは筆箱からシャーペンを取り出した。ノートは開いていたのに、シャーペンは出してなかったんかい、と心の中で思わずつっこむ。 肘を突いて窓の外を眺める横顔は、光のせいか眩しい。実は彼、結構男前なんだよなあ、とくだらなくも重要な思考をめぐらせながら私は再び睡眠時間の始まりに近づいていく。 次の授業もこうやって宍戸くんのことでも見ていたい。彼のことだからきっと次の授業も寝てしまうんだろう。そしてまたさっきみたいに大きな音を立ててしまったりして。数分前の光景を思い出して、自然と口元が緩みだす。ばれないように、手で隠すようにして小さく咳払いをした。 すると、鏡の中で、授業中にも関わらず紙パックのジュースのストローを咥えたままの彼と目があった。 「!」 「!!・・・ゴボッ、うわッ!」 かたん、と鏡が倒れた音を、それよりも大きな宍戸くんの声が掻き消す。今度こそクラス中が振り向いて、私を通り越して彼を見る。私は倒れた鏡を掴んで、どきどきとうるさい心臓をごまかす様に腕を組んだ。ゆっくりと振り返ると、みんながニヤニヤと笑っている中、宍戸はワイシャツと口の周りにジュースを零して慌てていた。びっくりしてジュースを気管にでも入れてしまったのか、彼はまだごほごほと咳をしながら口の周りを一生懸命袖で拭って、それから周りの笑っている人たちに向かって小声で「うるせー、笑うなよ!」なんて言っている。 「宍戸、お前はそんなにこれで殴られたいのかな?」といいながら先生が辞書を片手にニヤニヤと黒板を叩く。教室の空気もさっきとはがらりと変わってみんなもニヤニヤ。私はどきどき。鏡をポーチに突っ込んでいると、宍戸が「いや、だって・・・!」と中途半端な抗議をあげて、おそるおそる見てみると宍戸はばつの悪そうな顔をしたままジュースの紙パックを見て・・・それから私のほうをちらり。 とりあえず、小さく前で手を合わせて「ごめんね」と口パクで謝る。宍戸は何か言おうと口を開いたけど、それはチャイムが鳴ったことによって遮られる。「宍戸せいで今日はここまで」と先生が言って、みんなはガヤガヤと授業の片づけを始めた。 片づけ終わったら、宍戸くんに、ちゃんと謝ろう。さっきはごめんねって。 鏡越しではなく、直接彼のもとへ。 2012/08/13 |