木曜日の朝から身体のだるさは感じていた。夜には頭痛がひどくて熱を測ればなるほど、やっぱり風邪だ。風邪なんて、いつぶりだろうか。めったに引かなかったのが仇になったのか、久しぶりの寒気と熱になかなか堪えられない。気絶するように眠って、朝になって少しだけ熱が引いた瞬間に、ずるずるとシャワーへ向かったが、中途半端に浴びたせいで寒気がする。じんじんと力の入らない身体を引きずりベッドに倒れこむと、枕元の携帯を充電していないことに気が付いた。連絡といえば、たしかに取るべき人が一人思いつくのだが、充電器につないだところですぐに電源がつくことはない。時間をあけてボタンを長押しする元気すらなく、私の指先は携帯に触れることなくシーツを滑ってベッドの端から垂れた。

 シャワーの後にかろうじて持ってきた、昔なにかお菓子を買った時についていた小さい保冷剤を二つほど枕カバーの中に入れ、固いと思いながらもそこにこめかみを押し付ける。病院に行く元気もなければ、行けと催促してくれる人もいない。弱っているときほど、実家が恋しくなるものだ。小さいころはお母さんが、自転車の後ろに私を乗せて近くの内科に連れてってくれた。家ではただ寝ていればよくて、ご飯のときだけ、優しく起こされる。ナトリウムの含まれる清涼飲料水と薬を飲んだら、再び優しいお母さんの手が布団をかけてくれる。「新しい氷を入れてこなくちゃね」なんて言いながら。

しょぼすぎる保冷剤も、熱で感覚が麻痺している身体にはなかなか気持ちの良いものだ。だるすぎて寝返りもうてないけれど、目を閉じながら、気づくとある名前が口をついていた。


「―――け、いご」


半分無意識だったのかもしれない。私の視界は暗転した。おそらく今一番会いたい人であろうその人の姿が脳裏に浮かぶ暇すらなかった。




























 聞き覚えのある、そして最も聞きたかった声がかすかに耳に届く。覚醒しきれていない頭が目を開くように神経に指令するも、眩しい蛍光灯がそれを妨害する。早く姿をとらえたいのに、もどかしくて無意識に手を伸ばそうとするけれど、意外と重力がきつい。力なく布団に落下しそうになる手は、シーツにぶつかる前に、大きくて骨ばった別の誰かさんの手に掴まれた。


「俺は此処だ」
「、うん」
「意識はあるのか」
「ま、ぶし」


 頑張って目を開ける。恐らくものすごく目つきの悪い人みたいな顔になっているだろう。ようやく焦点を合わせると、そこにはベッドの脇に腰を下ろす恋人の姿があった。私の意識を確認すると、安心したように目を細める。が、それも束の間。景吾は眉間に皺を寄せた。いつもの、あの呆れている顔だ。


「ずっと寝てたのか」
「うん」
「丸一日?」
「朝、シャワー浴びたけど」
「携帯の電源も入れられませんでしたってか」
「ごめん」
「ったく馬鹿は風邪引かないってのは嘘だな」


 いつもの調子で憎まれ口を叩き出したけれど、手だけは握ったままなのを本人は気づいているのだろうか。ぶつくさ言う景吾が、夢ではないのだと嬉しくてにやにやしてしまうのを隠せない。熱のせいか、いつもより色っぽく見えるなあと思っていたら、「暑ぃ」と言って景吾は私の手を握っているのとは逆の手でネクタイを緩めた。どうやら色っぽく見えるのは、彼が額に汗を滲ませているからのようだ。


「ねえ。景吾くん」
「なんだ」
「もしかして、さ、汗かくほど急いで来てくれたの?」
「ゆっくりしてたら、今頃お前死んでたかもしんねえだろ」
「うわあ、なんか感動。風邪引いて良かった」
「…阿呆か。熱で頭がやられてるみてえだな」
「うん。だから看病して下さい」


 仕方無ぇな、と言う景吾はやっぱり優しい顔だった。彼はぎゅ、と一度強く手を握るとそれを離し、横に置いてあったビニール袋からがさがさと何かを取り出した。ぼうっとしている私の額にそれが当てられる。受け取るとそれは、冷たい清涼飲料水。

「飲めよ。水分とってねえんだろ」
「これ、景吾が買ってきたの?」
「当たり前だろうが馬鹿」
「一人で?スーパーで?」
「違ぇよ。コンビニエンスストアだ。いいから黙って飲みやがれ」
「どっちも同じだよ。ふふっ、景吾がコンビニでお買い物だって。笑っちゃう」


 彼がコンビニのレジに並ぶなんてなんだか想像もつかない。いつかチャンスが会ったらこっそり写メを撮ろう。景吾も、自分用に買ったミネラルウォーターを取り出して豪快に飲みだした。いっぱい汗をかいたのだろう。ごくりと飲み干す喉が綺麗で見とれてしまう。携帯に連絡してもつながらず、イライラしながら早歩きでコンビニに入る姿を想像すると、すごく愛おしくて、なんだかくすぐったい。
 私も頂いた清涼飲料水を飲む。熱すぎる身体に、冷たい液体が喉を下っていく感覚がはっきりとわかるほどだ。


ふう、と息をつくと、じっとこちらを見る景吾と目が合う。


「熱は測ったのか」
「そういえば、今日は測ってない、や」


無言のまま彼が身を乗り出して、私の前髪を掻き分けて額に触れる。暑い暑いと言う彼の掌は、それでも熱のある私にとってはやはり気持ちの良い冷たさだ。


「熱いな。薬は?」
「動くのが辛くて病院行けなかったし、持ってないよ」
「昨日と比べてどうなんだ?」
「うーん、楽になったとは思えない、かな」


 質問が多いのは心配をしている証拠であろう。普段はそっけなくて、私に関心があるような素振りを見せることのない彼なので余計に嬉しい。不謹慎なのはわかるが、ここでもやはりときめいてしまう。彼が来てくれなければ、今さら私は独りで熱に魘されていたのだ。何かと忙しい彼が会いに来てくれることがどれだけ幸せなことか。なんだかんだで心細かった午前中を思い出す。


「なんて顔してんだよ」
「なんか、どうしよ…ありがとね、景吾…」


 どんな顔をしていたのだろう。恥ずかしながら、多分涙目になっている。景吾はにやり、と笑って両手で私の頬を包み込んだ。「熱…」とつぶやいて、そのまま左手を顔の横につき、右手で額、頬を撫でる。まるで壊れそうなものに触れているように優しく。
 体勢を低くした彼の顔が近づく。鼻と鼻が触れ合うより先に、額を合わせてきた。色素の薄い蒼みがかった眼には、愛情が滲み出ている。

 二人の関係が始まった当時のように、心臓は跳ねていた。いくら時が流れても、飽きる事なんてない。跡部景吾という男の魅力は尽きることがないのだ。見つめられるだけでとろけそうになってしまって、私からいつも彼を溢れさせてしまう。その先に行かずとも、私はやられてしまうのだ。

 彼の唇が、私のそれに重なる。やはり少し冷たい。私の鼓動はとっくに相手に伝わってしまっているだろう。身体をさらに寄せ、啄むように何度も私の唇に触れてくる。ぼうっとする頭で、されるがままになってしまう。が、ぺろり、と景吾の舌が私の閉ざされたままの唇を舐め、その隙間に入りそうになったとき、あることが頭を過った。寸でのところで顔を背ける。
 景吾はいいところでお預けを喰らったことに、少し不機嫌そうな声を出した。


「…なんだよ」
「か、風邪、うつっちゃう」
「あぁ、そんなこと気にしてるのか」
「気にするよ。景吾はお仕事してるんだから、身体気をつけなきゃダメでしょ」


言い終わって、ちらり、と景吾を横目に見る。彼はふんっと息をつくと真顔のままくしゃりと私の頭を撫で、身体を離した。


「人のこと気遣うくらいなら風邪なんか引いてんじゃねえよ」


 そういって景吾は立ち上がり、「顔洗ってくる」と部屋を出た。私はふうーっと長い息をついてペットボトルを掴むと一気に中身を飲み干した。口を拭って、手を頬にあてる。心なしか彼が先ほどよりも熱い気がする。


「まったく、これ以上熱を上げてどうすんの」


 独り言が口をつく。熱は上がったかもしれないが、なんだか少しだけ楽になった気がするのは
多分、いや絶対に景吾のおかげだろう。なんて頼もしいことだろう。これならきっと明日には良くなっているに違いない。今日は一晩中傍にいてくれるのだろうから。
 ふと先ほどの口づけを思い出して、照れる。何度交わしても馴れることがない。いつか私は景吾の色味に溶かしつくされてしまうのではないかと思う。ほんとに、私なんかにはもったいないくらいのいい男だ。ああ、幸せすぎてまたにやけちゃう。


「なに独りでにやついてんだよ、馬鹿
「!!!」




 いつの間にか戻ってきたのか。佇む彼はやはり美しくていじわるな優しい笑みを浮かべていて。熱のある私には勝ち目なんてないのだ。さっきから愛おしさが溢れて仕方ない。腕を伸ばすと、景吾は優しく手を握ってくれた。そのまま額、瞼に口づけされて、さっさと寝ろと促される。
「早く続きがしてえだろ」と言われると、私は赤面しながら布団に顔を埋める事しかできない。











熱が上がったのは、きっと風邪のせいなんかではなくて彼のせい。






2012/08/10 跡部くんとらぶらぶ看病。年齢設定よくわからなくてすいません。