「おかえりなさい斉藤さんごはんにする?お風呂にする?それともわたし?」
帰宅した斉藤さんの身体が全て玄関という空間に入るよりも先に、私は繰り出した。今やドラマなどですら耳にすることの少なくなってきたこの台詞は、昔は同居を始めたばかりの新婚夫婦の惚気具合を形容するのに用いられたものだったのが懐かしい。
ちなみに私と斉藤さんは新婚夫婦などではないし、恋人同士なのかも怪しい仲だ。
「只今、」
斉藤さんは、にこり、と微笑みながら此方を見た。長くて黒い前髪の下から、なんとも述べ難いほどに美しい双眼が覗く。
その中には、僅かだが疑問の色が浮かんでいる。
「食事も風呂も、準備が出来次第で良い」
「もう全部できてます!」
「うむ、そうか。それとあと一つは、何て言ったのだ?」
「わたし、って言いました」
「・・・『』、?」
「そう。私です」
――――ああ、この顔が堪らない。
斉藤さんは頭の上に「?」のマークを浮かべつつ、私の名前を呟いたまま考え込んでしまった。さすがに彼の時代ではまだ通用しなかったらしい。伝わろうとそうでなかろうと、こういうことを言うのを私は楽しんでいた。
斉藤さんは、可愛い。初めて私の家に現れた時から奇妙な同居が続いて早数か月。何時でも彼は礼儀深い姿勢を崩さないままだ。もともと一人暮らしだった私に変な気を起こすような様子も見せないし、私も安心して彼を住まわせてあげている。絵に描いた様な綺麗な顔立ちと容姿に、私が彼に好意を持つのにはそう時間はかからなかった。今ではその態度を隠すようなこともしていないし、むしろわざと彼を褒めちぎっては、それに対する照れて困ったような反応を見てにやにやしているのが日課だ。
「わたし」の内容に、いつ気が付いて狼狽し始めるかと思うと緩む頬を隠しつつ、「とりあえずゆっくりしましょうか」と言って私は先にリビングの扉を開ける。
ハンガーを取り出して、斉藤さんを向き直る。着ているジャケットに手をかけて脱がしてあげようとしたら、いつもならたじろぐ彼が黙ったままされるがまま。何を考えているのかと顔を伺うと、視線がぶつかった。
先ほどとは違って、何か確信を掴んだ眼。
「風呂も食事も、人を癒し、満たすもの。だな」
「?、はい」
「『お前』という選択肢も、同じなのか?」
ネクタイを解こうと伸ばした手を、捕えられ、そのまま指を絡められる。慌てた私を逃がさぬ様にと、腰に手が回った。密着する身体に、彼の吐息が大きくなった。普段は波風一つ立っていない水面のような瞳が、欲望に揺れてなんとも扇情的で逸らすことを許さない。
二人して静かにベッドに倒れこむ。斉藤さんは、片手でいとも簡単にネクタイを外してしまった。いつもなら、私が解くはずだったその布は、理性と共に床へと滑り落ちた。
斉藤さんの唇が、手の甲に触れる。いつも煩わしい程の私がされるがままになっているのが面白いとでも思ったのか、彼は少し唇の端を持ち上げた。私はというと、それが次にどこに口づけられるのかと待ち構えてしまう。
「…」
覆いかぶさる彼の体重が重くなる。服の上から、脇腹を撫でられて身じろぎすると、斉藤さんが唾を飲み込んだ。
ピシ、と私の中の彼の偶像が罅割れていく。中からまだ見たことのない彼の本性が現れる。私は多分、それを待っていた。
「俺を満たしてくれ」
黙って頷こうとした顎は抑えられてしまって。返事の代わりに、私は口づけを受け入れた。
2012/08/19 改めまして、拍手ありがとうございました!!
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